答え






最も強い戦国武将・・・

“強い”と言って“パッ”と思いついた武将。
きっとその人物が答えです。
何を持ってして強いのか、それを選択するのも自由ですし、皆さんが想っている最強の武将がきっと最も強い武将だと思います。

なれど・・・

例えばプロ野球日本シリーズの勝敗予想。
「両チームとも非常に似たタイプのチームです。
どちらが勝つにしても4勝3敗、第7戦までもつれるでしょう!」
「・・・で、どっちやねん!」
と、ツッコミたくなる解説ほどもどかしいものはありません。

ならば・・・

私の答えも記しておくべきでしょう。















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最も強い戦国武将は「徳川家康」です。

戦国時代を終わらせ、その後260年も続く徳川政権の礎を築いた、というのが理由です。
夢も希望も無い、なんというごく当たり前な意見でしょう。。。

豊臣秀吉が天下統一を果たしますが、豊臣の政権は一代で終わり、家康が取って代わります。
家康の政権になっても、きっと“秀吉時代の家康”がいたはずなのに自らが死んでもそれをさせませんでした。
それどころか、その後代々徳川時代が続くのです。
自分の時代が続くシステムを作った事、そして自分がいないのにそれを従わせた事に何か凄い強さを感じてしまいます。
“武力”ではなく“政治的”な強さです。















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# by keta871 | 2012-09-29 18:13 | Comments(2)

質問






最もシンプルで、最もアバウトで、最も興味深くて、最も難しい質問です。

最も強い戦国武将は誰でしょう?















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誰、、、誰???















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# by keta871 | 2012-09-28 09:15 | Comments(4)

毛利輝元公像 その4






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毛利輝元が・・・もし、関ヶ原に出陣していたら。。。
西軍敗戦後・・・もし、当時まだ8才だった天下人・豊臣秀頼を奉り、そのまま大坂城に籠城していたら。。。
状況は大きく変わっていた事でしょう。

戦が終わると、家康は吉川広家と交わした密約通り“所領安堵”を条件に輝元を大坂城から退却させます。
が、戦後処理で家康はその約束を反故にし、輝元を改易する事を発表します。
輝元が積極的に西軍に関わった証拠の文書が出てきた為だそうですが・・・。
内応していた広家はこの決定に驚愕しますが、毛利家の存続を懇願し家康もそれを承知。
120万石から36万石の大減封となりました。


前田利長、上杉景勝、西軍に付いた宇喜多秀家、そして毛利輝元・・・
振り返ると“関ヶ原の戦い”で、家康以外の“豊臣五大老”はすべて減封などにより力を失っています。
家康が理不尽ないちゃもんを付け無理矢理そういう状況にさせられている・・・という見方も出来ますが・・・。
この密約を交わした事も、輝元が大坂城に籠城せずあっさり引き揚げさせる為のものだったのかもしれません。
家康にとって、秀頼が表舞台に出てくる事が一番厄介だったはずなのですから。


毛利輝元の銅像の写真なのに・・・“徳川家康の老獪さを際立たせる為の人物”になってしまいました。。。















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その後、260年以上徳川の世は続きますが、それを終結させた原動力の筆頭が毛利輝元が治めていた土地の志士達(長州藩)です。
この時の“関ヶ原”の恨みは消えていなかった!

・・・という事でしょうか?















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# by keta871 | 2012-09-27 14:21 | Comments(4)

毛利輝元公像 その3






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“関ヶ原の戦い”の布陣図を見ると、圧倒的に西軍が有利だと専門家は言います。
但し、駒が機能していれば・・・の話です。
西軍有利だった戦況も、小早川秀秋が東軍に寝返り一変します。
もう一方の毛利一族・吉川広家も戦に参加する事は無く、持ち場から状況を見守るに留まりました。
小早川秀秋が東軍に内通し、途中で西軍を裏切る手筈だったというのは有名な話ですが、吉川広家も東軍と内通しており、“毛利領の安堵”という密約を交わしていたそうです。
そういう事なら東軍に刃を向けるわけにはいきません。















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西軍総大将・毛利輝元は、なぜ関ヶ原に出陣しなかったのでしょうか?


毛利一族の2人の動き・・・広家の戦闘の不参加、秀秋の寝返りを輝元があらかじめ知っていたとすれば・・・
敗ける、又は不利になると分かっている戦場に行く気はしないですね~。
敗けたとしても「いやいや一切手出しはしていませんから・・・」と一応言い訳は出来ますし。
もし、戦が長期化し東軍・西軍共倒れになったら・・・“タナボタ”で輝元の天下になっていたかもしれませんし。
広家と家康との“密約”もあるし、不利だと分かっている状況の中で最もダメージが少なくなる選択が“関ヶ原には行かない”事だったのでは?















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# by keta871 | 2012-09-26 12:00 | Comments(2)

毛利輝元公像 その2






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『吉川広家』
父の吉川元春は毛利元就の次男。
広家も元就の孫になります。


『小早川秀秋』
羽柴(豊臣)秀吉の正室・ねね(高台院)の兄の子、つまりねねの甥。
関白・秀次(秀吉の甥)に次ぐ豊臣家の後継者として見られていましたが、秀吉待望の実の子・秀頼が誕生した事により小早川家と養子縁組させられます。
養子に出された先は小早川隆景。
隆景は毛利元就の三男。
形としては秀秋も元就の孫という事になります。



“関ヶ原の戦い”において、西軍に属しながらも怪しい動きをしていた“毛利一族”の2人です。















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そして・・・
毛利輝元も西軍総大将でありながら関ヶ原の戦場に兵を動かす事は無く、大坂城に籠っていたようです。
なぜ???

結果的には西軍は敗けてしまうのですから、やはり輝元が動かなかった事は間違えだったのでしょうか?















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# by keta871 | 2012-09-25 12:43 | Comments(2)