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長谷堂城 その5






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主郭のすぐ下の“曲輪郡”です。

お城はいろんな縄張がありますが、「長谷堂城」は説明板の様に山頂の主郭を中心に何重かのドーナツ状の曲輪が築かれていた感じになります。















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by keta871 | 2012-08-31 11:44 | Comments(2)

長谷堂城 その4






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“二重横堀”らしいです。
らしい・・・というのは、、、ここも説明板が無ければそうだとは分からなかったからです。
でも、「長谷堂城」でこれだけはっきり分かる堀・土塁はここが一番かもそれません。















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“切岸”という防御施設です。
敵が侵入し難い様に、人工的に作った斜面です。
空堀を掘った時に出来る斜面も同様です。

しかし、上杉軍対策の施設や構造が多いですね。















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by keta871 | 2012-08-30 10:58 | Comments(2)

長谷堂城 その3






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“土塁”です。
ここにも説明板がありましたが、正直よく判断出来ません。
かなり土の壁が削られて低くなってしまっている様です。















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単独の“曲輪(郭)”です。
柵が復元されていて、とても良く分かります。
どこの城もそうですが、段々畑の様になっているのはこういう曲輪がいくつもある所で、この「長谷堂城」では“曲輪郡”として説明されている部分だと思います。















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ペナントレースも佳境のはずなのに・・・全く存在感がありません。
淋しい。。。
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by keta871 | 2012-08-29 11:48 | Comments(2)

長谷堂城 その2






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“難攻不落”の城に付きものは、やはり水掘ではないでしょうか?
天下の「大坂城」も、結局堀を埋め立てられた影響で落城してしまったという事ですから。


「長谷堂城」にも規模の大きな水堀があったそうです。
現在は駐車場広場に復元したものが“ちょこっ”とありますが、本来ならもっと大きく深いものだったのでしょう。















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要所に案内板があります。
写真や図入りの非常に分かり易い案内板です。















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案内板が無かったら、完全にスルーしていた場所もありました・・・。
訳が分からなくても、とりあえず案内板には目を通すべきです。















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この微妙な段差加減、目を凝らしてよ~く見ないと分かりません。
これが400年の歴史なのです!















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5日間で宿題を終わらせる事が出来るのなら、なぜ序盤に済ませなかったのだろう・・・
いや、最後の5日間だから出来るのです!
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by keta871 | 2012-08-28 11:46 | Comments(2)

長谷堂城 その1






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「山形城」を訪問した事を“師匠S氏”に伝えたところ、
「お~、山形へ行ってきたのか。
じゃー「長谷堂城」も行って来ただろ?」
というお答え。

「は、はせどうじょう・・・?
そんな城、あるんですか?」

それが私と「長谷堂城」の出会いであり、そしていつか行ってみたい城の一つとなっていました。















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山形駅からバスで約20分程でしょうか、“長谷堂”停留所で下車すると、目の前に「長谷堂城」の小高い山があります。

よく“難攻不落”という表現をされる「長谷堂城」ですが、そんなに険しい山城というわけでもなく、散歩するにはちょうど良いぐらいのお城だと思います。
私も結構力んで参りましたが、そういう意味では少し拍子抜けしました。
完全に孤立した山(丘)なので、命の鈴(熊避けの鈴)を付ける必要もなく、気軽に楽しくのんびり散策する事が出来ます。















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本丸からの風景です。
中央より少し右側、遠くに高いビルが見えますが、あの辺りが山形駅で「山形城」でもあります。
「長谷堂城」は最上義光(伊達政宗の叔父さんです・・・)の居城「山形城」の支城でした。

家康追撃を止め、最上領侵攻へ打って出た上杉軍。
最上の支城を次々に攻略し快進撃を続ける上杉軍・直江兼続の前に立ちはだかったのが、最上軍屈指の要害「長谷堂城」でした。















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小学生の頃、夏休みの宿題は・・・
今頃から始めていました!
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by keta871 | 2012-08-27 07:49 | Comments(4)

天地人 上杉景勝公と直江兼続公主従像 その5






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過去を語る時、“もし~だったら・・・”と考える事、これほど愚かな事はありません。
いくら考えたりした所で、過去が変わるわけありませんから。。。
でも、これほど面白い事もありません。
言っている事がかなり矛盾しておりますが・・・。















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もし、上杉が家康を追撃していたら・・・

家康は江戸から身動きが取れなくなり、西側の情勢も変わっていたのでは・・・
いや、きっと三成は“総大将が不在なのに戦っても意味が無い!”などと言って総力戦までには至らず、結果的には歴史と同じく負けていたのではないでしょうか。。。?















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さて、一旦会津に帰還した上杉軍、次の一手は最上領(山形市辺り)の併合でした。
秀吉の領土配分により、当時の上杉の領土は会津や佐渡・庄内(新潟の上の方)など最上義光(伊達政宗の叔父さん)の領土を囲む様に分断されていました。
江戸の家康や政宗、義光ら、豊臣に反旗を翻しそうな怪しい連中を監視する為に、上杉は越後から会津に移っていたという事です。
その最上領を獲得する狙いは、家康に対抗する力を備える為。
そして旧領だった越後への復帰を果たす為だとも言われています。















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最上領侵攻部隊の大将は直江兼続。
そして“奥羽の関ヶ原”最激戦区だったのが「長谷堂城」でした。。。















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最近“前田”って名前をよく目にします。
“前田日明(あきら)、また何かやっちゃたのかな!?”なんでドキドキするけど・・・
そっちの前田さんね♡
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by keta871 | 2012-08-26 12:00 | Comments(2)

天地人 上杉景勝公と直江兼続公主従像 その4






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大坂から会津に向かっていた徳川家康は、下野国(栃木県)小山で石田三成挙兵の報せを受けました。
軍議を開き、福島正則や黒田長政ら血気盛んな豊臣恩顧の武将の協力を得ます。
寄せ集めの集団なので、誰が裏切るか、誰を信用してよいか、慎重派の家康はこの時点でもまだ疑ってたようですが、一応形としてはこの小山で東軍が結成され、兵を西に返します。


上杉軍にとっては、この時が最大にして唯一の勝機でした。
直江兼続は家康を追って関東に攻め込む様、熱心に進言します。
しかし、大将の上杉景勝は追撃を拒みます。
『このたびの事は家康から仕掛けてきたので合戦の備えをしたが、家康が江戸に引き返した以上こちらも会津へ引き返すのが道理というもの
上杉は逃げて行く敵を後ろから追った事はない』
などどいう美学を発揮して、国境線を超える事はなかったそうです。
“いやいや、あなた上杉だけど謙信じゃなくて景勝でしょ!?”
・・・と、ツッコミたくなりますが、この“バカ正直な義”が秀吉からは信用され、敵であった家康にもお家断絶という最悪の選択をさせなかったという一つの要因だったのかもしれません。















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「直江状」の挑発に乗ったふりをして三成を誘き出す事に成功した家康は、上杉を牽制するには丁度いい、そして「江戸城」に近い北関東辺りまで進軍し、そこから引き返す。
景勝&兼続を徹底リサーチ済みの家康は“上杉ブランドで固められた景勝は絶対に背後からは攻めてこない!”と確信しての“家康流・三成も景勝も兼続も私の掌で踊っていなさい作戦”だったのでは!?

と、私は思っていました。


家康の予想以上に三成の挙兵が早く、そして予想以上に兵の数が多かったそうなのです。
三成と上杉に挟み撃ちにされても、自軍を二つに分けて対応出来ると計算していましたがそれでは到底無理だと判断し、小山で軍の結束をして全軍で西に向かった、、、という説もあります。
家康自身はその後江戸に約一ヶ月滞在します。
東海道を進む豊臣恩顧の武将達が、約束通り攻撃を仕掛けるか見極める為。
味方に付いた武将や全国の大名達に大量の書状を送り、勝利への布石を打つ。
この根回しこそが勝利の要因だったと言っても過言ではありません。
そして最も恐れていた事は、上杉軍が攻め下りて来る事だったそうで、その警戒やようやくはっきり形が見えてきた今後の大戦の準備の為の滞在だったようです。


一方景勝は、深追いするよりもまずは自分達の地盤を固めておこうという考えを持っていたとも言われています。
結果だけ見れば、天下分け目の合戦は僅か半日で決着が着いてしまいます。
恐らく誰もが予想していなかった超・超・超短期決戦だったのです。
何日も、何ヶ月も何年も要する戦だと考えれば、景勝の考えが正しかったのかもしれません。
さすがに“義”だけでは家臣を養ってはいけません。
ちゃんと“利”も考えていた・・・のかな?















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健介ファミリー、頑張れ~!
無事ゴール出来る事、祈っております。
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by keta871 | 2012-08-25 13:19 | Comments(2)

天地人 上杉景勝公と直江兼続公主従像 その3






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“関ヶ原の戦い”とは日本中を二分した徳川家康の東軍VS石田三成の西軍の戦いの事です。


秀吉の死後、政権は家康を筆頭とする五大老と三成を中心とする五奉行の合議制で動いていました。
まだ幼い秀吉の子・秀頼の為に秀吉が存命中に作ったシステムです。
しかし家康は、この政権では禁止されていた諸大名と私的に婚姻関係を結んだり加増したりと、独自の派閥を形成してやりたい放題。
他の大名はそんな家康の行動を非難します。
その中心人物が豊臣LOVEの三成でした。
そして石田三成と直江兼続は信頼関係を築いていたのです。
両者とも“利より義”です。















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前回、「直江状」で激怒した家康は、、、という表現をしましたが、激怒したふりをした・・・と言った方が正しいかもしれません。
とにかくこれで上杉討伐の名分も立ったわけです。
そしてこの会津攻めは、家康自ら出陣し大坂を留守にする事によって三成の挙兵を誘う、という理由もあったようです。
三成と一戦交える為に着々と、そして入念に根回しし、家康軍というよりは三成の事を良く思わない武将達による“反三成軍”の結成も可能と判断しての出陣だったのではないでしょうか。


一方の三成も、家康が会津へ出向く事により、自らは家康軍の後ろから攻め、上杉との挟み撃ちを考えていたという説が一般的です。
「直江状」は家康を誘き出す為の書状で、兼続と三成との間で密約があったとも言われています。



当然家康も“挟み撃ち対策”は考えていたそうなので、とにかくここまでは両軍とも思惑通りに事は進んでいた感じなのです。。。















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会津の上杉もただ家康を待っている、というわけにはいきません。
家康と婚姻関係を結んだ伊達政宗や政宗のお母さんのお兄さん(つまり叔父さん)の最上義光ら家康派の動向にも目を光らせなければなりません。
東北の方でも“関ヶ原”は行われていたのです。















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甲子園も終わってしまいました・・・
次はヤングなでしこ!
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by keta871 | 2012-08-24 12:39 | Comments(2)

天地人 上杉景勝公と直江兼続公主従像 その2






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越後から会津へ移封されたばかりの上杉景勝は時の天下人・豊臣秀吉の了解を得て京から会津へ帰国。
新たな城の築城、諸城の改修、道路などの整備、鉄砲や武具の購入など領国整備を進めていました。
ですが間もなく秀吉が死亡。
この時、豊臣政権の事実上のNo1は徳川家康でしたが、その家康の同意も得て整備は進行していたはずでした。

ところが家康はこの動きを“豊臣家に対する謀反の準備”と難癖をつけ、景勝に上洛して釈明する様に求めました。
秀吉の死により天下への野心が露わになった家康は、有力な大名に脅しをかけ忠誠を誓わせるという荒業を用いていたのです。
加賀の前田家がこの“家康スペシャル”で屈服。
次に目を付けられたのが上杉家でした。















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武具を集めていると言われるが これは上方の武士が茶碗など茶道具を集めているようなもの

田舎武士が槍や鉄砲を集めるのは 古来よりの風習でございます

謀反の疑いを信じ込んですぐに京に上れと命ずるのは 乳飲み子の扱いにも等しきこと

のこのこと出かける今時の流行は 上杉の家風ではございません










直江兼続が最も男気を見せた書状「直江状」です。
家康を怒らすに足る返答が、長々と綴られていたそうです。















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激怒した家康は上杉討伐の為、会津へ出陣。
天下分け目の関ヶ原は、事実上この時幕を開けました。















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by keta871 | 2012-08-23 12:18 | Comments(8)

天地人 上杉景勝公と直江兼続公主従像 その1






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タイトルは、その名もズバリ
「天地人 上杉景勝公と直江兼続公主従像」

平成23年4月建立です。















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向かって左側が上杉景勝です。
上杉謙信のお姉さんの子供で、豊臣政権では“五大老”の一人でもあった人物です。

右側“愛”の前立ての兜も持っている方が直江兼続です。
景勝の執政、家老、軍師、懐刀・・・
3年前の大河ドラマ「天地人」の主役が直江兼続でした。















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この銅像は「米沢城」にあります。
“関ヶ原”では石田三成の西軍に付いていた景勝でしたが、西軍は敗北。
景勝が家康に降伏し、会津120万石から米沢30万石に減封されたのでした。















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明日は高校野球決勝戦。
甲子園でも赤とんぼが飛んでいる事と思います。。。
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by keta871 | 2012-08-22 12:06 | Comments(2)