人気ブログランキング | 話題のタグを見る

山内一豊之妻 その5






山内一豊之妻 その5_a0248182_0292876.jpg
















豊臣秀吉亡き後、まだ幼い秀吉の子・秀頼はお飾りに過ぎず、事実上トップに君臨していたのが徳川家康でした。
“俺が一番偉いんだから、大阪まで挨拶をしに来なさい!”
と諸大名に連絡しますが、会津の上杉(直江兼続)が
“いちいちそんな事で大阪まで行ってられるかい!”
と挑発した為
“上杉謀反じゃ~!”
と怒ってしまい、家康は上杉討伐の為、会津に向かって挙兵しました。
家康が大阪を離れた事が“関ヶ原の戦い”のきっかけの一つだったのです。
形としては“関ヶ原の戦い”は豊臣の家臣同士の争いという事で、家康と行動を共にした中には豊臣恩顧の大名も多数おり、山内一豊もその中の一人でした。
秀吉の忘れ形見・秀頼を後ろ盾にした石田三成に付くか、性格は最悪だが天下人としての器を備えた実力者の徳川家康に付くか・・・
家康と共に行動し関東まで来ていたとはいえ、一豊はまだ決断出来ずにいました。















山内一豊之妻 その5_a0248182_0331434.jpg
















で、一豊の奥さん(千代)です。
この時、奥さん(千代)は大阪の屋敷におり、石田方から加勢を勧誘する書状も山内家に届いていました。
“こちらの味方になりなさい”という手紙です。
奥さん(千代)は石田方から届いたこの書状と、奥さん(千代)本人から一豊に宛てた大阪の情勢などが記された文と、二つの書状を文箱に入れ、“徳川に付くならこの文箱を開けずに家康に届けなさい”という密書を笠の緒に仕立てて使者に届けさせました。
密書の通り一豊が文箱を家康に届けると、重要な情報を未開封のまま自分に差し出した一豊の忠誠ぶりを大いに喜んだそうです。
未開封のままの書状を家康に読ませた・・・というのが奥さん(千代)の機転ですね。















山内一豊之妻 その5_a0248182_1151617.jpg
















“関ヶ原の戦い”の結果は御承知の通りです。
奥さん(千代)の機転が無く、忠誠心がある事を理解されていなかったら一豊は土佐を任せられていなかったかもしれません。















山内一豊之妻 その5_a0248182_156143.jpg
















「人気ブログランキング」に参戦中です。
“ひまわり”をクリックするとポイントが加算され、順位に反映されます。
本日も1クリック、宜しくお願いします!

人気ブログランキングへ
by keta871 | 2014-07-30 02:02 | Comments(0)
<< 山内一豊公之像 その5 山内一豊公之像 その4 >>