“関ヶ原の戦い”の布陣図を見ると、圧倒的に西軍が有利だと専門家は言います。
但し、駒が機能していれば・・・の話です。
西軍有利だった戦況も、小早川秀秋が東軍に寝返り一変します。
もう一方の毛利一族・吉川広家も戦に参加する事は無く、持ち場から状況を見守るに留まりました。
小早川秀秋が東軍に内通し、途中で西軍を裏切る手筈だったというのは有名な話ですが、吉川広家も東軍と内通しており、“毛利領の安堵”という密約を交わしていたそうです。
そういう事なら東軍に刃を向けるわけにはいきません。
西軍総大将・毛利輝元は、なぜ関ヶ原に出陣しなかったのでしょうか?
毛利一族の2人の動き・・・広家の戦闘の不参加、秀秋の寝返りを輝元があらかじめ知っていたとすれば・・・
敗ける、又は不利になると分かっている戦場に行く気はしないですね~。
敗けたとしても「いやいや一切手出しはしていませんから・・・」と一応言い訳は出来ますし。
もし、戦が長期化し東軍・西軍共倒れになったら・・・“タナボタ”で輝元の天下になっていたかもしれませんし。
広家と家康との“密約”もあるし、不利だと分かっている状況の中で最もダメージが少なくなる選択が“関ヶ原には行かない”事だったのでは?
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