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天地人 上杉景勝公と直江兼続公主従像 その4






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大坂から会津に向かっていた徳川家康は、下野国(栃木県)小山で石田三成挙兵の報せを受けました。
軍議を開き、福島正則や黒田長政ら血気盛んな豊臣恩顧の武将の協力を得ます。
寄せ集めの集団なので、誰が裏切るか、誰を信用してよいか、慎重派の家康はこの時点でもまだ疑ってたようですが、一応形としてはこの小山で東軍が結成され、兵を西に返します。


上杉軍にとっては、この時が最大にして唯一の勝機でした。
直江兼続は家康を追って関東に攻め込む様、熱心に進言します。
しかし、大将の上杉景勝は追撃を拒みます。
『このたびの事は家康から仕掛けてきたので合戦の備えをしたが、家康が江戸に引き返した以上こちらも会津へ引き返すのが道理というもの
上杉は逃げて行く敵を後ろから追った事はない』
などどいう美学を発揮して、国境線を超える事はなかったそうです。
“いやいや、あなた上杉だけど謙信じゃなくて景勝でしょ!?”
・・・と、ツッコミたくなりますが、この“バカ正直な義”が秀吉からは信用され、敵であった家康にもお家断絶という最悪の選択をさせなかったという一つの要因だったのかもしれません。















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「直江状」の挑発に乗ったふりをして三成を誘き出す事に成功した家康は、上杉を牽制するには丁度いい、そして「江戸城」に近い北関東辺りまで進軍し、そこから引き返す。
景勝&兼続を徹底リサーチ済みの家康は“上杉ブランドで固められた景勝は絶対に背後からは攻めてこない!”と確信しての“家康流・三成も景勝も兼続も私の掌で踊っていなさい作戦”だったのでは!?

と、私は思っていました。


家康の予想以上に三成の挙兵が早く、そして予想以上に兵の数が多かったそうなのです。
三成と上杉に挟み撃ちにされても、自軍を二つに分けて対応出来ると計算していましたがそれでは到底無理だと判断し、小山で軍の結束をして全軍で西に向かった、、、という説もあります。
家康自身はその後江戸に約一ヶ月滞在します。
東海道を進む豊臣恩顧の武将達が、約束通り攻撃を仕掛けるか見極める為。
味方に付いた武将や全国の大名達に大量の書状を送り、勝利への布石を打つ。
この根回しこそが勝利の要因だったと言っても過言ではありません。
そして最も恐れていた事は、上杉軍が攻め下りて来る事だったそうで、その警戒やようやくはっきり形が見えてきた今後の大戦の準備の為の滞在だったようです。


一方景勝は、深追いするよりもまずは自分達の地盤を固めておこうという考えを持っていたとも言われています。
結果だけ見れば、天下分け目の合戦は僅か半日で決着が着いてしまいます。
恐らく誰もが予想していなかった超・超・超短期決戦だったのです。
何日も、何ヶ月も何年も要する戦だと考えれば、景勝の考えが正しかったのかもしれません。
さすがに“義”だけでは家臣を養ってはいけません。
ちゃんと“利”も考えていた・・・のかな?















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by keta871 | 2012-08-25 13:19 | Comments(2)
Commented by あい at 2012-08-25 16:03 x
何事も、根回しが大切、ってことですね。
でも、義で動く人間がもっと多ければ態勢は変わっていたかもしれませんよねぇ。
昔も今も、人の心は難しく、それを考えて動くことが一番の利への近道なんですね。
Commented by keta871 at 2012-08-26 09:50 x
あいさん
義で動く人間がもっと多かったら・・・
家康は戦を仕掛けなかったと思います。
まさに人の心を読んで“勝算あり!”と思っての戦だったと思います。
家康と三成の人生経験の差が出た戦だったのかもしれませんね。
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